「生きる意味が分からない」生きる目的を見つける方法

生きる意味が分からない。

このことで悩む人は、世の中に数多く存在する。

何かの拍子で人生に絶望した人はもちろんだが、そうでなくてもこの思考に陥る場合がある。

少し哲学的に思えるかもしれないが、本人にとっては、周りが想像している以上に深刻な問題なのだ。

生きる意味を失った人はどうなるか。

全てのことが無気力になり、最悪の場合、生きることを放棄しようとしてしまう。

私も、過去にこのような思考に陥ったことがある。

だからこそわかるのだが、この答えを見つけられないことは本当に苦しいことだ。

それはまるで「出口のない迷路」に迷い込んでしまったように、とてつもない不安感に襲われる。

そこで今回は、「生きる意味がわからない」と悩む人達に向け、私なりの生きる意味を説きたいと思う。

自分が何のために生きているのか、その答えを見つけられない人は是非参考にして欲しい。

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人は生きているのではなく生かされている

私が最初に「生きる意味」に疑問を抱いたのは18歳の頃である。

その頃の私は、人生に絶望していた。

強迫性障害を発症し、さらに追い討ちをかけるように飛蚊症になってしまったのだ。

同年代が青春を謳歌している最中、私は人生のどん底な気分を味わっていた。

そのような日々を過ごすにつれ、次第に生きる気力は失われていった。

自分は一体何のために生きているのか……。

毎日、そのことばかりを考えていた。

このまま消えてしまいたい……。

当時は、本気で自ら命を投げ出そうとしたこともあるほどだ。

それでも私がここまで命を繋いでこれたのは何故なのか。

それは、私が生かされているからである。

あなたも、今までこんな言葉を聞いたことはないだろうか。

人は自分の意志で生きているのではなく、生かされている。

私は最初、この言葉の意味がわからなかった。

人が自分の意志で「生きている」のではなく「生かされている」などとは到底信じられなかったからだ。

この言葉は、「特定の宗教に属している人」や「信仰心が強い人」に向けられた言葉なのだとずっと思ってきた。

しかし、今ならこの言葉がこの世の真理だとわかる。

そのことを悟ったきっかけは「私と同年代の男が川で溺れて亡くなった」というニュースを見たからだ。

その人物は、友達とバーベキューに来ていたようで、川で泳いでいる時に足をつって溺れてしまったようだ。

彼の友人達も、まさかこのようになるとは誰も思っておらず、救助も遅れ、最悪の結末を迎えてしまったらしい。

テレビに映し出された彼の写真からは今が楽しくて仕方がない」といった気持ちがヒシヒシと伝わってきた。

きっと彼の頭には、輝かしい未来の人生プランで満ち溢れていたことだろう。

しかし現実は、彼は未来に辿りつくことなく、若くして人生を終えてしまった。

その一方で、人生に絶望し、生きることを放棄しようとしていた私は今もこうして生きている。

この時、私は始めて「生かされている」ということを理解した。

もちろん、このことだけで「生かされている」と断言するのは早計だろう。

前述した川で溺れた件にしても、彼がもっと注意していれば防げたことかもしれない。

しかし、世の中には、自分の意志ではどうにもならないことは山ほどある。

ニュースを見れば、天災事故に巻き込まれ、毎日のように誰かが亡くなっていることがわかる。

彼等は自分の意志に反して命を落としている。

人は、自分の意志で「生きる」ことを選べないのだ。

この事実だけをみれば、今生きている人達が「生かされている」ことは紛れもない真理なのである。

どんなに人生を満喫している人でも、命を落としてしまえば、そこで「生きる意味」は失われてしまう。

逆にいえば、今生きているというだけで、その人にはまだ生きる意味があると考えられる。

「生きる意味」に悩んでいる人は、まずはそのことを頭に入れてもらいたい。

生きる意味と生きる目標は違う

生きる意味が分からないという人に、もう一つ知ってもらいたいことがある。

それは「生きる意味」と「生きる目標」は違う、ということだ。

生きる目標とは、自分の夢や欲望を叶えようとすること。

両者は似ているようで、全く異なるものである。

人は誰しも「こうなりたい」という自分像を持っている。

その「理想の自分」を実現するために、毎日懸命に努力している人は世の中に数多く存在する。

しかし、それを達成することを「生きる意味」と捉えてしまっては、永遠に生きる意味を掴むことはできない。

なぜなら、人の欲望には際限がないからだ。

「人間の欲望に際限がない理由」でも話したように、ひとつの欲望を達成したことで一時的には安堵感を得られても、すぐにまた次の欲望が押し寄せてくる。

そうなれば、永遠に「生きる意味」を探す焦燥感に襲われることになってしまう。

さらに厄介なことに、この現象は、逆に欲望が達成できなかった時にも起こりえるのだ。

いつまで経っても目標が達成できないことで、自分の不甲斐なさばかりに目を向けるようになり、自分には生きる資格がない、という思考に陥ってしまう。

「生きる意味」を夢や欲望という尺度で計っている限り、自分の生き様を肯定することはできないのである。

そうではなく、本当の「生きる意味」を見つけるためには、もっと使命感のようなものが必要なのだ。

「これは自分にしかできない」「自分はこのために生まれてきた」

そう心から自分自身を奮い立たせることができるものである。

では、それは一体どのようなものなのか。

次項では、そのことを具体的に説明する。

あなたの生きる意味を見つけるために

前項までは「生きる意味」の概要について語ってきた。

そのことを踏まえたうえで、「生きる意味」とは何かを具体的に説明したい。

私が思う「生きる意味」とは、ずばり人に影響を与えることだ。

人は誰しも、悩みを持っている

人間関係の悩み、健康の悩み、金の悩み、未来の悩み。

悩みは人によって様々だが、いずれも心に不安を抱いている。

その「不安」を、あなたが解消させてあげれば良いのだ。

あなたがその人に働きかけることで、その人の不安が解消されるならば、それは立派なあなたの「生きる意味」となる。

そのことをすぐに実践できる簡単な方法がある。

それがボランティアだ。

昔の私は、ボランティアをする人の気持ちがわからなかった。

「ボランティアをしても自分には何も利益がないのに、彼等は何故そんなことをするのだろう」

ずっとそう思っていた。

だが、今ならその理由が分かる。

彼等は困っている人々を助けることで、自分が人に影響を与えている実感をダイレクトに受け取っていたのだ。

自分がやらなければ困っている人達は助からない。

そのような使命感が、彼等を奮い立たせるのだろう。

もちろん、ボランティアをしている全ての人が、その対価を得るために行っているわけではない。

単純に、慈悲の精神に溢れている人だっている。

しかし、本人に自覚がなかったとしても、自分にしかできない使命感を手に入れたことは、「生きる目的」を手に入れたことと同義なのである。

そう考えれば、人々の役に立ち、自分にも「生きる意味」を与えてくれるボランティア活動は、本当に素晴らしい物だとわかるはずだ。

だからといって、これを読んでいる全ての人にボランティア活動を強要しているわけではない。

いくら「生きる意味」を手に入れられるからといっても、やはり、いきなりボランティア活動をするのは少々ハードルが高いことだ。

だが安心して欲しい。

そのような大層なことをしなくても、人にはちゃんと影響を与えられる。

例えば、あなたが何かの本を読み、とても感銘を受けたとしよう。

その感想を、作者に送るだけいい。

自分がその本を読んだことで、どのように気持ちが変化したのか、または感銘を受けたのか。

そのことを作者に伝えるだけでも、作者に「影響を与える」ことができる。

もしかしたら、そのことがきっかけで、作者に次回作を作る動機を与えられるかもしれない。

そうなれば、それはまさにあなたの生きる意味となるだろう。

もっと簡単なことでいえば、人に「笑顔」を向けるだけでもいい。

人に笑顔を向ければ、相手に「好意」を伝えられる。

それだけでも、相手は自分の存在を認めてもらえたという承認欲求を得ることができるのだ。

生きる意味に悩んでいる人には、このような小さなことでも「人に影響を与えられる」という事実を知ってもらいたい。

ただし、一つ注意してもらいたいのは、人に影響を与えることは相手を喜ばせることにしなければならない。

誹謗・中傷など、相手の心を傷つけることもたしかに影響を与えることだ。

しかし、そのような負のエネルギーで培った影響は、いずれは自分自身にも跳ね返ってくる。

これでは両者ともに不幸になるだけだ。

そうではなく、人に影響を与えることは、相手の心に正のエネルギーを与えることにするべきだ。

私のことでいえば、このブログを作ることが、私の「生きる意味」だと思っている。

このブログを通して、私と同じような悩みを持つ人に少しでも影響を与えることができれば、これほど幸せなことはない。

あなたにも、あなたにしかない「生きる意味」はちゃんとある。

どうか、そのことを探すことを諦めないで欲しい。

あなたが影響を与えた人物が、他の誰かに影響を与える。

そうして人々が互いに影響を与え合い、多くの人が幸せになれることを私は切に願っている。

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