天才は自分が天才であることを認めるべき

世の中には天才と呼ばれる人々がいる。

しかし、彼等(彼女等)は天才と呼ばれることを決して認めようとしない。

「自分は天才ではない。努力家である」

その言葉を聞いた世間は

「なんて謙虚なんだ」「やっぱり努力してるんだな」「努力に勝るものはない」

などと、何の疑いもなく聞き入れ、このことを美談として収める傾向が強い。

一見して何の問題もないように見えるが……果たして、本当にこれは良いことなのだろうか。

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何故天才と呼ばれることを否定するのか

天才……その言葉は非常に甘美である。

凡人達とは一線を画し、生まれながらにして特定の才能を持ち合わせる。

多くの人間が彼等を羨望の眼差しで見つめても、それは決して手の届かない領域だと気づいてしまう。

だからこそ、人々は彼等に憧れ、盛大に称える。

しかし、当の本人にとっては、あまり良いことではないようだ。

天才と呼ばれて、素直に「はい、そうです」と頷く人を私はあまり見たことがない。

思い浮かぶのは漫画『スラムダンク』の主人公「桜木花道」くらいだろうか。

では何故、彼等は天才と呼ばれることを頑なに否定するのか。

これは一つに、日本が謙虚を美徳とする文化であることが挙げられる。

私達の教育は、幼少の頃から一人で目立つことよりも、周囲に合わせることを重視されている。

これが潜在意識にすり込まれ、自分の意識とは無関係に、天才と呼ばれることに心地の悪さを感じるのかもしれない。

だが、私はこれが決定的な要因とは思わない。

それだけの理由で、あれだけ天才を否定する人が多くなるとは思えないからだ。

私の見解はこうだ。

彼等は、天才と呼ばれることで自分の努力を否定されるのが嫌なのだ。

天才という言葉には文字の通り、天から才能を授かる、という意味を持つ。

よって、凡人が努力でようやく辿りつける領域に、天才は易々と辿りついてしまう。

もしくは、初めからすでに辿りついている。

つまり、どんなに自分が努力をしたと言っても、天才と呼ばれてしまえば、そのことを無かったことにされてしまうのだ。

毎日の過酷な練習、我慢、時には挫折しかけたことがあるかもしれない。

どんなに天才と呼ばれる人間でも、一流と呼ばれる者は必ず経験していることだろう。

しかし、そんな現実も「あいつは天才だから」の一言で片付けられてしまう。

言われた本人からすれば、これはたしかに面白くない。

だからこそ、彼等は頑なに自分が天才であることを否定する。

否定しなければ、自分の成果は努力なしに勝ち得た怠け者のような扱いを受けるからだ。

だが、私はそれでも、彼等には天才と呼ばれることを受け入れる義務があると思っている。

一流のベースは才能

前述したように、天才と呼ばれる人間も努力はしている。

これは間違いない。

では、彼等は天才ではなく単なる努力家なのだろうか。

いや、私はそうは思わない。

天才と呼ばれる一人の例を出そう。

日本国民なら誰もが知っている、イチロー選手だ。

彼の名前を出して、天才だと思わない人はいないだろう。

だが、彼自身もまた、自分のことを天才ではなく努力家だと言っている。

私は、過去に彼のドキュメンタリー番組を見たことがある。

そこでは、常識では考えられないほどの練習量をこなす彼の映像が流れていた。

もちろん、この練習とはチーム練習のことではなく、彼が独断で行っている個別練習のことだ。

これを見れば、たしかにイチローの成果は才能だけで培ってきたわけではないことがわかる。

恐らく、多くの人はこの番組でイチローを見直し、やはり天才でも努力をしているんだ、と思ったはずだ。

だが、少し待ってほしい。

果たして、努力をすれば誰もがイチローのようになれるのだろうかと。

冷静に考えればわかることだが、イチローと全く同じ練習量をこなしたからといって、イチローと同じ能力を身に付けられる保証など、どこにもない。

もし、凡人がイチローと同じ能力を身に付けようと思えば、最低でも彼の2倍は練習をこなす必要があるだろう。

いや……もしかしたら、それでも届かないかもしれない。

そう、つまりどんなに努力をしていても、一流と呼ばれる人間のベースはやはり才能なのだ。

天才は天才であることを認めるべき

あなたはこんな式を見たことがないだろうか。

才能×努力=成果

誰が作ったのかはわからないが、私は、この計算式は非常によくできていると思う。

同じ努力をしても、才能がのものとのものでは、それだけで差が開いてしまうのだ。

当然、人間は生まれながらにして平等ではないのだがら、このこと自体は驚くべきことではないだろう。

だが、恐ろしいのは、天才と呼ばれる層がそのことを否定することだ。

「努力をすれば誰でもできる」

天才と呼ばれる人々の発言力は恐ろしい……。

天才にそう言われてしまっては、凡人は何も言い返せない。

結局のところ、そのことで一番割を食うのは努力をしても成し遂げられなかった人々だろう。

練習量だけで言えば、イチローより量をこなしている選手は必ずいるはずだ。

だが、それでも才能の絶対値が劣っている者では、イチローのようにはなれない。

よって、その努力を認められない……。

これは天才が努力を認められないことよりも遥かに残酷なことだ。

彼らの発言は、知らず知らずのうちに、才能のない努力家を苦しめていることになる。

もちろん、ドイツのように才能という分野をしっかりと認識している国では、このような事態にはならないだろう。

だが、残念ながら我が国では、才能よりも努力が重視される傾向が強いように感じる。

だからこそ彼等には、天才であることを自覚し、堂々とそのことを表舞台で公表してもらいたい。

それが「天」から「才」を授かり受けた者に架せられた義務なのだと私は思う。

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