先日、アルバイトで出向いた派遣先の企業で、とある出来事が起こった。
朝、私が事務所に行くと、社員の一人が社長と思われる人物に怒鳴りかかっていたのだ。
内容はこうだ。
「このブラック企業が! 社員を何人潰してきたと思ってんだ!」
尋常ではない怒り具合に、すぐにタダ事ではないことを察した。
何をされたのか、その詳細まではわからなかったが、恐らく社員が不当に扱われたことを抗議しているのだろう。
過去にブラック企業で働いたことがある私としては、とても見過ごすことができず、あわよくば社員を援護しようと動向を見守っていた。
次第に私以外の人も集ってきて、社員と社長の周りには軽いギャラリーで埋めつくされる形となった。
そんな野次馬の視線を気にもせず、社員の抗議はますますヒートップしていく。
これだけの観衆を味方につければ、さぞかし社長は立場がないだろう。
私はそう確信していた。
ところが……事態はあらぬ方向に進むこととなる。
言い方や態度で印象が変わる
なんと、観衆を味方につけたのは社員ではなく、社長の方だったのだ。
ふと気づけば、周りは皆、抗議する社員に冷たい視線を向けている。
補足しておくが、社員の抗議は至極まっとうであり、内容を聞く限り特におかしなことはなかった。
にも関わらず、現実は社員に味方がつくどころか、軽蔑の眼差しを向けられているのだ。
これは一体何故なのか。
その理由は、この社員の言い方である。
実は、この社員は常に怒鳴りっぱなしだった。
私も最初こそ不当な扱いを抗議する社員を応援していたのだが、あまりに暴言や怒鳴り声が多く、だんだんとこの社員がだたの野蛮人としか思えなくなってしまった。
それは周りも同じだったらしく、皆、途中からはこの社員を「珍獣を見るような目」で見つめていた。
その様子に、次第に社員を擁護する気が薄れてしまったのだ。
私は、この時初めて「言い方」や「態度」の重要性に気づいた。
どんなに正論を述べたとしても、その言い方や振る舞いが傍若無人では、悪印象しか受けないのである。
やはり、人がその人に好意を抱くかどうかは、話している内容だけでなく視覚情報も重要なのだ。
いわゆる非コミュニケーションの部分である。
今回の件でいえば、必死に熱弁する社員の抗議内容よりも、冷静な対応をする社長の紳士さの方が際立っていた。
私ですらそう感じたのだから、周りの人達はもっとそう感じたはずだ。
その証拠に、ギャラリーの一人は「怒鳴らないでください」と社員をたしなめていた。
いかにこの社員の言動が悪印象だったのかを証明している。
実際は社長の方が悪いはずなのに、周囲の評価では社長よりも社員の方が悪者になっている。
そのことで何より残念なのが、社員の抗議が社長に全く響かなくなってしまったことだ。
実は、最初は社長の方が劣勢だった。
社員の抗議内容に、「痛いところを突かれた」とばかりに、社長は終始たじろいでいた。
しかし、あまりにも社員がヒートアップするので、途中からはその言動に苦笑いを浮かべ始める。
それ以降、社長は社員の言葉を真面目に聞くこともなく、常に流し気味だった。
これは、本当にもったいない……。
もし、この社員がもう少し冷静な言い方をしていれば、違う結果になっていたかもしれないのに……。
振舞い方に気をつけよう
文字と違い、相手に口頭で伝える時は、人は「話の中身」よりも「視覚情報」に気を取られてしまう。
ある意味、これは恐いことである。
話の中身よりも、その人の印象で物事が判断されてしまうということは、それを利用することもできるからだ。
その代表とも言えるのが選挙である。
近頃、不祥事を起こす政治家のニュースをよく見かける。
それを見る度に、何故こんな人が政治家になれるのか、とずっと疑問だった。
だが今回、その理由がわかった気がする。
どんなに政治家としてふさわしくない人でも、柔らかい物腰で説得力のある振舞いをすれば、大衆はその人物に好印象を受けるのだ。
逆に言えば、どんなに素晴らしい政治思想を持っていたとしても、その言い方や振る舞いが伴わなければ、当選はしないのである。
せっかくの有望な政治家の卵が、こんなことで公正に判断されないことは本当にいたたまれない。
だが、それは仕方のないことかもしれない……。
人間には機械と違い、感情があるのだから。
どう客観視しようとしても、自分の感情は介入してしまう。
今回の件は、そのことを深く考えさせられた。
今後は、私も相手に何かを伝える時は「言い方」や「態度」に注意したいと思う。