人生で一番大切なことは何ですか。
この質問を聞かれて、あなたは何を思い浮かべるだろう。
金、人脈、努力、勇気。
その答えは人によって千差万別だ。
そのため、一概に結論を出すことはできないかもしれない。
しかし、私の答えは決まっている。
私が考える人生で最も大切なこと……それは自分で決断することだ。
私の今までの人生で、これ程までに大切なことはないと断言できる。
自分で決断することが何故大事なのか、今回は私の体験談を交えて、そのことを語りたい。
自分で決断することの重要性
私が最初に「自分で決断すること」の重要性に気づいたのは中学三年生の時だ。
中学三年生といえば、大抵の人が初めて人生の選択を迫られる時だ。
自分で志望校を選び、受験し、入学する。
自分の将来や学力を照らし合わせ、学校の外観や内部、イベント行事など、あらゆることを考えて悩み抜く。
中学生にとってはとても大変な作業だが、最終的に選択した学校には、何かしら自分なりの動機があるはずだ。
だが、私はそれをしてこなかった……。
この決断をする作業がどれだけ重要なことか、私は今になってそれを身に染みて感じている……。
私が志望校を選んだ理由……それは親に流されただけだった。
当時の私は比較的成績の良い方だった。
そのため、いくつかの高校への推薦入試の基準を満たしていた。
私の親はそのことを大いに喜んだ。
だが、私自身は受験というものに全く関心がなかった。
将来も【良い大学、良い会社へ入ることへの幻想】で書いたような漠然としたイメージしか持たない、典型的なステレオタイプだった。
親は私の成績を考慮し、偏差値の高い高校へ行くことを勧めてきた。
その時の正直な気持ちは「乗り気じゃない」だった。
だが志望校を選ぶことの面倒臭さや、受験を早く終わらせたかった衝動から、私は流されるままにその学校を選択する。
そのことが、私の人生に多大な苦悩を与えるとは知らずに……。
その後、見事に推薦で合格した私は、クラスメイトが必死に受験勉強をしている中、自分だけは自由になれたことに優越感を感じていた。
しかし、その至福も中学卒業までの三ヶ月間だけだった。
高校に入学した私は、合わない校風、片道一時間の電車通学、想像以上のハイレベルな授業、それらが全て苦痛に感じていた。
毎日が灰色の生活……比喩ではなく本当にそんな気持ちだった。
そのような高校生活を送るにつれ、どんどん自分という者を卑下するようになった私は、とうとう強迫性障害という精神病を患ってしまう。
結局、中退という形でこの学校を去ることとなった。
自分で決断しなかったことで、ここまで人生を狂わせる結果になってしまうとは……推薦入試を決めた時には夢にも思わなかった。
だが、決断しなかったことで本当に恐ろしいのはその後だった……。
自分で決断しないことで起こる弊害
私が中退した根本的な理由は自分で決断しなかったからだ。
自分で決断しなかったのだから、当然その選択への動機もない。
だからこそ、全てに対して意欲が沸かなかったのだ。
しかし、自分で決断せずに流された者にとって、その答えは意味を成さない。
何故なら、流されて選択した者は、その結果を人のせいにするからだ
これこそが自分で決断しなかったことで起こる、最も恐ろしい弊害だ。
私は親を恨んだ。
「何故あんな学校を進めたんだ」「自分は最初から乗り気じゃなかったのに」
頭の中で、何度も何度もそのことを繰り返した。
本当は自分が悪いこともわかっているのだが、どうしてもその恨みを消すことができなかった。
結局、このことを自覚できるようになるまでの数年間、私は親を恨み続けることになる。
さらに、自分で決断しなかったことで起こる弊害はこれだけではない。
他人に流されてばかりの者は、自分の選択を永遠に信じることができないのだ。
自分の選択が間違っていた場合、たしかにそれは非常に悔しい。
だが、自分の選択が正しかった場合は、それ以上に得るものが大きいのだ。
「自分の選択はやはり正しかったんだ」
そう心から実感し、自分のことを誇らしく思うことができる。
この経験を何度も繰り返していくうちに、人は自分の中に本当の「核」を作り上げることできる。
逆に、他人に流されてばかりの人間は、最悪の場合、自分自身を信頼することができなくなってしまう。
それは【自分に自信がない人が確実に「自信」をつける方法】で話したように、とても恐ろしいことだ。
決断するということは、自分自身を信じること。
そのためには、どんなに苦悩しても自分で決断しなければならない。
決断力を鍛える方法
では決断力を鍛えるためにはどうすれば良いのだろうか。
その方法は損得を考えないことだ。
決断できない人のほとんどは、損か得かで選択を決めようとする。
こっちを選択したらどれだけ得になるか、こっちを選択したらどれだけ損をするか。
これでは決断できないのは当たり前だ。
それよりも大事なことは、その選択をすることで、自分の心がどれだけときめくかだ。
もっと厳密にいえば、自分の気持ちに正直になることである。
実際のところ、自分の本当の気持ちというのはすでに決まっていることが多い。
だが、選択を損か得かで考えてしまえば、その感情は途端に萎んでしまう。
もちろん、時にはその感情を選んでも、間違いだったと思う時もあるだろう。
しかし、それはその時の自分の気持ちに正直になった結果であり、逆にいえば、その時の自分には必然の選択だったといえる。
少なくとも、その結果で後から自分を恨むことはないはずである。
それでも自分を信じられず、決断に迷ってしまう人には、もう一つ良い方法がある。
それは人の意見に従うことだ。
さんざん他人に流されない方が良いと言ってきたが、それは思考停止に流された場合だ。
もし、あなたがその人の意見を真摯に受け止め、納得したうえで決断したのなら、それは立派なあなたの決断なのだ。
同じ他人の決断でも、流されて決断したことと、意見を自分の物にして決断したものでは、意味合いが全く異なる。
ただし、これには一つ注意してもらいたいことがある。
意見を聞く相手はあなたの信頼できる人でなくてはならない。
ここでいう信頼とは、あなたのことを全て理解してる人である。
あなたの長所、あなたの短所、あなたの性格、あなたの思考。
それらを全て理解してるうえで、あなたがどちらを選んだ方が最善かを考えてくれる人だ。
ここでいう最善も社会的なことではなく、あくまであなた自身が幸せになれる選択を指す。
このことからも、意見を聞く相手はできれば親以外が良い。
親はあなたのことをわかっているようで、実はわかっていないからだ。
親はあなたに苦労してほしくないと願うばかりに、社会的な地位や安定ばかりにとらわれてしまう。
もちろん、それも幸せを願うからこそであるが、これではあなたを真に理解しているとはいえない。
意見を聞く相手は、あなたのことを客観的に見てくれる人でなければ意味はないのだ。
しかし、そのこと知らない多くの人は、親の意見こそが全て正しいと勘違いしてしまう。
どうか意見を聞く相手を見誤らないでほしい。
あなたのことを本当に理解しれくれる人ならば、きっとあなたが幸せになれる選択を選んでくれるはずだ。
決断を恐れない
以上のように、決断するポイントは心のときめき、信頼できる人の意見の二つだ。
決断する時はこのことを頭に入れ、最善の選択をしてもらいたい。
最後に、それでも決断することが怖いと思ってる人へ、この言葉を送りたい。
【運命は決まっている】で話したように、あなたがどちらの選択をするかはすでに決まっているかもしれないのだ。
だからこそ決断を恐れずに、もっと気軽に自分の気持ちに正直になってもらいたい。
あなたが私と同じ過ちを犯さないように、真に決断できる人になれることを切に願う。