ニートの実態を誤解している人は多い。
世間から見るニートといえば、ただ遊んでいる怠け者と見られがちだ。
このようなイメージからか、普通に働いてる人からは、ニートは非常に疎まれることが多い。
中には、「自分もニートになりたい」と羨む人もいる。
たしかに、働かずに生きていけるニートは、ある意味では彼等の言う通り、恵まれているのかもしれない。
しかし、いざ自分がニートになれるとしたら、誰もがニートになることを選ぶだろうか。
いや、断言する。
絶対にそうはならないと。
何故なら、ニートにも向き・不向きがあるからだ。
今回は、そんなニートの実態を、ニート経験のある私が直に説明したい。
ニートを羨ましいと思う人は、まずはこの記事を読み、自分が本当に「ニートに向いているのか」を判断してもらいたい。
※記事内の「ニート」は収入が一切ない人のことであり、不労所得で収入がある人は対象に入れてません。
ニートが覚悟しなければならないこと
ニートになることで、まず初めに覚悟しなければならないのは社会的身分を失うことだ。
当然かもしれないが、社会的身分のないニートへの風当たりは厳しい。
世間はもちろんのことだが、中でも一番厳しいは金融機関からの目だ。
クレジットカード作り、ローンを組むこと、賃貸アパートなど、日本では金銭に関わることには審査が行われる。
仮に貯金がある状態でも、ニートの状態では、これらの審査はなかなか通らない。
よって、ニートになる場合は、金融機関との関わりは諦めなければならない。
ただ、これ自体はさほどニートにとって問題ではない。
基本的に働かなくても生きていけるニートにとって、金融機関との関わり合いは直接生活に影響しないからだ。
しかし、大きな問題はその先にある。
それは結婚だ。
結婚すれば、夫婦が共に暮らす家は必要不可欠だ。
その時に、初めて自分のマイホームを持ちたいと思っても、ニートの状態ではその願いは叶わない。
もちろん、専業主婦(夫)となり、相手の収入に依存するという方法もある。
しかし、現在の日本の経済状況では、片方が専業主婦(夫)に専念できるケースは稀である。
そもそも、ニートの状態では出会いを求めることも困難だ。
婚活パーティー、街コン、結婚相談所など、これらを利用するにもお金がかかる。
ましてやニートの状態では、肩書きの時点で相手からは敬遠されるだろう。
出会った時は働いていた、というのなら話は別だが、ニートの状態から伴侶を探すというのはかなりの困難を極める。
一昔前なら、女性の場合は家事・手伝いという名目でニートの状態でも許されていた。
しかし昨今では、共働きを希望する男性が増えてきたため、女性にも収入源が求められている。
このことからもわかるように、ニートになるということは自分の家庭を作れない可能性が高くなるということ。
結婚願望がある人は、決してニートには向いていない。
ニートの交友関係事情
前項で話したこと以外にも、ニートには覚悟しなければならないことがある。
それは交友関係だ。
基本的に、ニートの状態では交友関係を断ち切る必要がある。
何故なら、交友関係を維持するためにはお金が掛かるからだ。
飲み会、イベント、レジャー施設など、何処へ遊びに行くにもお金が掛かる。
たまに行くならまだしも、人から誘われるごとに付き合っていては、ニートの状態ではとても身が持たない。
それを回避するためにも、ニートは極力人と関わることを避けなければならないのだ。
もちろん、お金をかけなくても交友関係を維持することはできるだろう。
しかし、それは相手がニートに理解を示している場合だけだ。
ニートになった時点で、友人との関係に亀裂が入ることは珍しくない。
どんなに学生時代は仲が良かったとしても、相手がニートに偏見を持っていれば、関係性を維持することは不可能だ。
やはり、社会人とニートでは、相手に共感することが難しいのだろう。
唯一の例外として、相手も自分と同じニートという状態ならば、交友関係を積極的に持っても問題ない。
これならば、同じニート同士ということで、お互いの心境や境遇も共感しやすく、相手に偏見を持たれる心配もない。
金銭面に関しても、二人で遊ぶ時は自然とお金を掛けない方法を選ぶはずだ。
ただ、そのような相手を見つけるのは非常に難しい。
一般的には、皆、自分がニートであることを隠すからだ。
よって、ニートになるということは、人との接点が少なくなる可能性が高いということ。
それはつまり、一人でいる時間が多くなるということだ。
そのことを苦に感じる人や、人と関わることが好きな人は、決してニートには向いていない。
ニートには、孤独に対する耐性は必要不可欠だ。
ニートは自分との向き合い
ここまで、ニートになることで覚悟しなければならないことを色々と話してきた。
それらは、いずれも主に外界との接点に関わることだ。
しかし、ニートになることで最も覚悟しなければならないことは他にある。
これこそが、ニートに向いているか・向いていないか、を判断するための最も重要な指標と言ってもいい。
それは、ニートである自分を肯定できるかどうかだ。
ニートになるということは、世の中の大半の人とは違う生き方をするということ。
それはつまり、自分が少数派になるということだ。
周りに同じようなニートがいるならまだしも、そうでないのなら、物凄い疎外感を感じることになるだろう。
自分はこのままで本当にいいのか、皆と同じ道を歩まなくて良いのか。
ニートの頭の中には、常にこのような自問が繰り広げられている。
そんな時、少しでも戸惑いや迷いがある人は、すぐに自己嫌悪に陥ってしまう。
自分はなんてダメな人間なんだ……。
このような思考になってしまっては、もう心の健全は取り戻せない。
ニートで平穏にいるためには、ニートである自分を真っ向から肯定する必要があるのだ。
世間からどんなに批判されても、叩かれても、「自分はこれでいいんだ」と心から思えること。
そのことが、何よりのニートに向いている資質なのである。
そのためには、自分の中に確固たる信念を持たなければらない。
周りの意見に流されない、自分だけの価値観。
その価値観を守るためには、たとえ人から疎まれても、叩かれても動じない。
その強い意思を持っているからこそ、ニートである自分を許すことができる。
だが、実際にはこのような強い信念を持っているニートは稀である。
ほとんどのニートは、自己嫌悪に陥りながらも、ただニートから抜け出せないだけの場合が多い。
周りから見れば同じでも、自分で望んでニートになっている人と、仕方なくニートでいる人とでは、雲泥の差がある。
前者のニートが叩かれているのはある程度仕方ないとしても、後者のニートが叩かれているのを見ると、本当に気の毒に思ってしまう。
ニートに偏見を持っている人は、せめてニートを一くくりにしないであげて欲しい。
あなたはニートに向いているか・向いていないか
ここまで、私の経験を踏まえたニートの実態を紹介してきた。
ニートを経験したことがない人や、ニートに偏見を持っていた人は、大分ニートの印象が変わったのではないだろうか。
少なくとも、ニートがただの「怠け者」とは思わなくなったはずである。
ニートにもニートなりの苦痛や、葛藤が存在するのだ。
ただ、別に私はニートを擁護しているわけではない。
一番重要なことは、この記事を読んで、あなたが素直にどう感じたかである。
ニートを羨しいと思ったか、それともニートを不憫だと思ったか。
もし、「羨ましい」と感じたのなら、それはあなたがニートに向いている証拠だ。
現在もニートの状態で、そのままニートでいられのるなら、無理にニートを脱却する必要もないし、それを考える必要もない。
今は働いているが、いずれはニートになりたいと願っているのなら、物事の主軸を「その道」になれるように考えることが、あなたが幸せになれる一番の近道だ。
しかし、逆に「ニートになんて絶対なりたくない」と感じたのなら、あなたはニートには向いていない。
「働きたくない」「楽になりたい」などという理由で、間違ってもニートになってはいけない。
それで快感を得られるのは一時的だけだ。
そのような人は、すぐに世間からの重圧や孤独感に押し潰され、自己嫌悪に陥るだろう。
ニートにも「向いている人」と「向いていない人」がいる。
そのことを絶対に忘れてはならない。
もし、それでもニートへの嫌悪感を消さない人には、一つ大事なことを伝えたい。
それは、少数派に属するよりも大多数に属していた方が楽である、ということだ。
前述したように、世間のニートへの風当たりは厳しい。
それは主に、「ニートは怠け者」という偏見からきているかもしれないが、それ以上に、ニートが「少数派」だからだろう。
もし、ニートが世の中の過半数になったとしたら、きっとニートが叩かれることはないはずだ。
昔に比べ、働き方は大分多様性になってきたが、それでも多くの人は普通に会社に属して働いている。
そのような現状では、やはりニートは異質なのである。
いくら頭ではニートに理解力を示したとしても、「奇異の目」で見られることはやはり避けられない。
ニートを選んでいる人は、その覚悟を持っている者、または、それしか選べないからだ。
逆に言えば、大多数に属する「普通」を選べることは、それだけで恵まれているということ。
もし、あなたが今、「普通」に会社に属して働いているなら、それはとても価値のあることである。
社会不適合者からすれば、そのような道は選びたくても選べないのだから。
だからこそ、むやみに「ニートを羨むこと」や「ニートを叩く」真似をしないでもらいたい。
間違った偏見や嫉妬心で、自分の「価値」を自ら下げる必要はない。
「ニート」と「普通に働く人」とでは、もはやの別の人種なのだから。
両者を同じ土俵で比べる必要は全くないのだ。
そのことを多くの人が心に留め、両者が共存できる世界が作られることを、私は心から願っている。