10代~20代前半の若者を見ていると「キラキラしている」と感じることがある。
比喩ではなく、本当に目がキラキラと輝いて見えるのだ。
思い返せば、私にもあのようにキラキラしていた時代があった。
しかし、ある時、いつの間にかキラキラしなくなっている自分に気がついた。
一体、あの「キラキラ」は何だったのか。
ふと、そのことが気になり、私なりに深く考えてみた。
今回は、そんな若者が持つキラキラの正体について語りたい。
若者がキラキラしている理由
若者がキラキラしている理由は、間違いなく未来に希望を持っているからだ。
まだ何色にも染まっていない自分。
自分は将来何にでもなれるという無限の可能性。
これこそが、彼等をキラキラさせている大きな要因である。
人は年を取るにつれ、自分の限界を知ることになる。
努力ではどうにもならない才能の壁や運の要素だ。
そういった「自分の限界」を知る機会は、若いうちにはなかなか訪れない。
若いうち、とくに学生というのは結果が出しやすい時期である。
学生の本分である勉強は、試験前に一生懸命勉強すれば大抵の人は良い点が取れる。
大きな節目である受験にしても、偏差値は自分の頑張り次第で上げられるものだ。
だが、一度でも社会人を経験した者ならわかると思うが、社会はそんなに単純なものではない。
仕事で結果を出しても評価されなかったり、ただゴマすりがうまい奴が出世したりと、筋の通らないことばかりだ。
そんな理不尽な世界でも、大人になれば折り合いをつけて生きていかなければならない。
そのような日々を送るにつれ、心はよどみ、次第にキラキラ感が失われていく。
いや、正確に言えば、キラキラしているだけでは生きていけないのである。
多くの人は、自然と防護壁(耐性)を身にまとうようになるからだ。
それが理不尽なことから自分の心を守るための処世術である。
もちろん、年を取ってもキラキラしている人はいる。
ただ、それは好きな仕事をしていたり、目標のために頑張っていたりと、後天的な付加価値があってこそのキラキラなのだ。
残念ながら、それは若者が持つキラキラとは似て非なる物である。
本物のキラキラというのは、やはり純粋無垢な若者だけがもつ性質なのだと私は思う。
若者がキラキラすることへの弊害
キラキラしている若者を見て、中には羨ましいと感じる人もいるだろう。
できることならあの頃に戻りたい、きっとそう願っているはずだ。
だが、ここで一つ考えてもらいたい。
キラキラしていることは、果たして本当に良いことなのだろうか、と。
結論から言えば、私は決してそうは思わない。
なぜなら、若者がキラキラしていることは、「本当の挫折」を経験していないことを意味するからだ。
【挫折は早いうちに経験した方がいい理由】でも話したように、挫折を知らないことは、生きるうえで非常にリスクの高いことだ。
挫折を味わったことがなければ、挫折の苦しみや絶望を知ることができない。
それはつまり、挫折への耐性を養えないということだ。
そんな人間が大人になって一度でも挫折を味わえば、心はすぐに折れてしまうだろう。
最悪の場合、もう二度と立ち直れないほどに……。
就職活動に敗れた者が自らこの世を去る、というのはその最たる例である。
挫折を知らずにキラキラしている弊害はこれだけではない。
さらに厄介なことは、他人を攻撃するようになることだ。
意外に思うかもしれないが、「自己責任」という言葉を使って弱者を叩いているのは若者が多いのだ。
前述したように、若いうちは努力が結果に繋がりやすい環境にいる。
そのため、挫折している人間を本人の努力不足だと決めつけてしまう傾向が強い。
そのことを、私は友人を通して嫌というほど味わってきた。
私にはTという友人がいる。
Tとは大学時代からの付き合いになるため、かれこれ10年以上の関係になる。
これだけ長く付き合ってこれたのも、Tと私の価値観が似ていたからだ。
しかし、一時は絶縁関係になりかけたこともある。
それは大学を卒業し、Tが社会人になったばかりの頃の話だ。
当時のTは意欲に燃えていた。
早く仕事を覚えて立派な社会人になろう、頭の中はそのことでいっぱいだった。
努力をすればすぐに結果はついてくる。
それがTの信念であり、まさに今回話してきた若者像そのものだった。
一方の私といえば、【新卒で入社した会社がブラック企業だった話】でも話したように、新卒からすでに世間でいう「普通の道」から外れていた。
そのため、Tは次第に私を軽視するようになる。
自分は社会人として真っ当な道を進んでいる最中、普通の道から反れている私を「努力不足」だと感じたのだろう。
だが、当の本人である私は、【「自分で決断する」ことは人生で一番大切なことである】で話したように、高校時代から強迫性障害にかかるなどで、すでに人生の挫折を味わっていた。
それだけに、Tの「努力をすれば必ず結果は出る」という考えには賛同できなかったのだ。
お互いに譲らない価値観は、いつしか摩擦を生み、それからしばらくの間、Tとは疎遠になった。
だが、それから数年後、久し振りに再会したTはすっかり変わっていた。
当時の意欲的な情熱は消え、見るからにしてキラキラがなくなっていたのだ。
さらに驚いたことに、Tは私に「あの頃はすまなかった」と謝罪してきたのだ。
自分で社会の理不尽さに揉まれ、ようやく努力ではどうにもならないこともある、ということを悟ったのだろう。
たしかにキラキラ感はなくなったが、私は今のTの方が魅力的に思える。
やはり、何も知らずにキラキラしていることは罪深いことなのである。
若者はキラキラしているもの
正直に言って、私はキラキラしている若者が腹立たしい。
それは嫉妬という感情ではなく、「自分は万能だ」と思い込んでいることに対してだ。
視野の狭い彼等は、今見ている世界が世の中の全てになってしまっている。
そのうえ、まだ本当の挫折を味わったことがないにも関わらず、挫折している人間を自己責任だと決めつけて叩く。
そんな傲慢な考えは絶対にあってはならないし、本来なら咎めるべきところだ。
だが……ある意味では仕方がないとも言える。
Tのように、どうしたって本当の挫折の苦しみは自分で経験しなければわからないのだから。
今キラキラしている若者も、いずれはそのことに気づく時が必ずくるだろう。
それまでは「若者はキラキラしているものだ」と割り切って、寛容な気持ちで接するしかないのかもしれない……。
ただ、だからと言って、キラキラしている若者を見て「羨ましい」とは絶対に思わないでもらいたい。
何も知らずにキラキラしていることは、決して誉められることではないのだから。
世の中のキラキラしてる若者が、一日でも早くそのことに気づいてくれることを私は願っている。