今年(2019年)のゴールデンウィークは未曽有の10連休だった。
世間は大型連休で賑やかになっていたが、それに反して私の気持ちは萎えてしまった。
その理由は、私が世間でいうところのまともな立場ではないからである。
この時期になると、嫌でもそのことを感じさせられてしまう。
そんな時、ふと思ったのだ。
まともな人生とは、どのような生き方を指すのだろうか、と。
今まで漠然としたイメージは持っていたものの、そのことをじっくりと考えたことはなかった。
そこで今回は、まともな人生を送りたいと願う人に向けて、まともな人生を送るためには何が必要なのかを考察する。
まともな人生を送れる人と送れない人の差
初めに言っておくが、今から述べる「まともな人生」とは、日本で昔から良しとされている人生設計のことである。
誰からも批判されることがなく、周りから立派だと賞賛される人生だ。
よって、その人生が必ずしも正しいとは限らない、ということは注意してもらいたい。
今から話すことは、アクマでこの国で「まともな人生」と呼ばれる生き方だ。
もちろん、私自身もそれを全て肯定しているわけではない。
では考察に入る。
私が思うに、まともな人生を送れる人と送れない人は、最初から差があるわけではないと思うのだ。
生まれ持った能力による差はあれど、その影響は幼少の頃にはほとんど反映されない。
おおむね小学生くらいまでは、多くの人がまともな人生のレールを走っている。
大きく差が出るのは中学生からだろう。
それも高校受験の時からだ。
ここで第一志望の高校に入れるかどうか、そこが第一のターニングポイントである。
やはり、志望する学校に入れないことは、高校生活へのモチベーション低下を起こす。
弱い人間なら、受験の失敗がその後の人生にも大きく影響してしまうかもしれない。
ただ、この時点では、まだ十分に挽回することは可能だ。
この挫折をバネにして、今後の人生に活かす方向にも持っていけるからだ。
よって、本当にまともな人生を送れるか送れないかを左右するのは、高校に進学してからの話である。
以下に、高校生活以降のまともな人生を送るための必要事項を記しておく。
高校時代に必要なこと
まず大前提として、まともな人生を送るためには高校を無事に卒業することが最低条件だ。
卒業は当たり前だと思うかもしれないが、義務教育ではないため、誰もが卒業できるとは限らない。
ネットでまともな人生から脱落してる人を見ると、高校を中退している割合が高いのだ。
よって、高校を卒業できた人は、それだけでも最低限のことはクリアしたと言っていいだろう。
ただ、あくまでそれは最低限の必要事項であり、卒業しただけではまともな人生を送れるとは限らない。
では、高校時代は何が必要なのだろうか。
勘違いされがちだが、実は高校生活でまともな人生を送るために必要なのは勉強ではない。
勉強なんてものは、本人のやる気さえあれば一人でも十分にできるものだ。
本当に高校で学ぶべきことは、勉強よりももっと大切なことがある。
それは、社会人として働くための基盤作りだ。
毎日同じ人間と共に過ごすことで、集団生活を行うための社交性を養っていく。
要するに、コミュ力の形成だ。
社会で生きていくためには、勉強よりもコミュ力の方が何倍も役に立つ。
極論を言えば、コミュ力さえあれば勉強なんてできなくてもどうとても生きていけるのだ。
その力を養うことが、この高校生活ではとても重要である。
そのために、特に大事になってくるのが部活動の存在だ。
まともな人生を送りたいと考えるなら、できれば運動部の上下関係が厳しい部活がいい。
というのも、日本の上場企業の社員は体育会系の人間で占められているからだ。
理系分野なら必ずしもそうとは言えないが、文系の道に進むならばこの上下関係は避けては通れない。
その耐性を養うためには、先輩後輩の立場を体感できる部活動が得策なのだ。
運動部は一つ年が違うだけで与えられる権力に大きな差が出る。
「一年早く生まれただけで偉そうにされるのはごめんだ」と思う人もいるかもしれないが、このことに慣れておかなければ今後の社会人生活で苦労することになる。
どんなに勉強ができる人でも、帰宅部で学校と家を往復しているだけの人はまともな人生を送れない可能性が高い。
普通に通うだけでは横の繋がり(同年代)しか補完できず、この上下関係を体感できないのだ。
それを養うことが、まともな人生を送るために必要な第一の基盤である。
欲を言えば、後々に青春コンプレックスにならないためにも、この時期に恋人や親友などを作り、青春らしいことをしておければ尚のこと良い。
もちろん勉強を疎かにしない、という条件付きだ。
こう考えると、まともな人生を送るためには、高校生活は多忙な時期と言えるだろう。
大学時代に必要なこと
高校を卒業したら、多くの者は大学に進学する。
大学全入時代と言われているように、今では高卒で就職する割合は非常に少ない。
その影響もあり、近年は大卒以上を求人票に提示している企業が非常に多い。
よって、まともな人生を送るためには、大学に進学することは必須となる。
大手企業に入社することなどを考えると、大学は全国的に名の知れた有名大学に行きたいところだ。
有名大学に行けば、少なくとも就職活動の書類選考で落とされることはない。
だが、有名大学に入学すればまともな人生を送れるかと言われれば、これもまたそうではない。
【良い大学、良い会社に入ることへの幻想】でも話したように、有名大学に入ればその後の将来は安泰というのはバブル期までの話である。
今の時代にその俗世を信じていたら、まともな人生のレールから早々に脱落する羽目になるだろう。
では、大学時代では何が必要なのか。
一言で表すと、それは主体性だ。
高校から大学に進学すると、それまでの生活が一変する。
高校時代までは、授業日程、行事など、日々こなさなければいけないことが全て決められていた。
そのため、それに黙って従っていれば優等生として扱われた。
しかし、大学は違う。
大学は自分で授業カリキュラムを組み、全て自分で判断しなければならない。
高校時代のように受け身のままでは何も始まらないのだ。
巷では、大学生活を「人生のオアシス」と比喩する人もいるが、この時期は自由時間が豊富だ。
日本では、社会人になれば自由時間はほとんどないため、やりたいことがあるのなら、この時期に済ませておく必要がある。
世間から公認で「遊ぶ」ことが許されるのもこの時期だけだ。
だが、勘違いしてならないのは、「遊ぶ」というのも何をしてもいいというわけではない。
ここにもまともな人生を送るための暗黙のルールが存在する。
具体的には、サークル活動、アルバイト、旅行やイベント行事など、リア充活動のことである。
そこで培った人間性の深み、コミュ力、主体性、などを就職活動ではアピールしていく。
そういった遊びをしてきた人間は企業受けがとても良い。
本人には自覚がないかもしれないが、キラキラと目に輝きがあり、エネルギーに満ちて見えるのだ。
逆に、毎日自堕落な生活を過ごしてきた者は、表情も暗く、目に光がない者が多い。
まともな人生を送れない人は、圧倒的に後者のタイプだ。
大学で友達を作らず、授業以外は家で引きこもってネット漬けになるなど、世間との関わりを極力避ける傾向にある。
だが、大学時代はそれでも許されてしまうところがポイントだ。
自由な学生生活を謳歌できる人は輝き、そうでない人はとことん堕ちていく。
この格差が明確に付くのが大学時代である。
ある意味では、まともな人生を送れるかどうかを判断するには持ってこいの時期だろう。
自由に甘えずに自分を律し、自分で何をするべきかを考えて行動する。
こうした人物像を企業は求めているのだ。
社会人時代に必要なこと
厳しい就職活動を乗り越え、無事に大手企業から内定が出ればようやく一段落だ。
だが、社会人になってからこそが本当のまともな人生の始まりである。
学生時代はいわばその下準備に過ぎない。
まず、社会人で求められることは、いかにして理不尽な日々に耐えるかだ。
社会人は学生時代と違い、自分でコントロールできない理不尽なことが多発する。
毎日変化のない日常に加えて、何をすれば評価されるという明確な決まりもない。
仕事ができなくても、上司に気に入られればそれだけで出世することもある。
そういった理不尽な日々を乗り越えるための「力」を学生時代にどれだけ身に着けてきたか、それが試されるのが社会人生活である。
高校時代に上下関係が厳しい部活動に所属していた者は理不尽への耐性が強く、大学時代にリア充活動で主体性とコミュ力を鍛えた者は上司へのゴマすりも上手い。
しかし、勉強しかしてこなかった人間は、こうしたスキルを全く身に着けていない。
よって、学生時代に真面目だった者ほど社会人になってから挫折することが多い。
学生時代は勉強ができれば優等生の扱いを受けられたが、社会人になれば勉強ができることは何の評価にもならない。
多くの親や教師は、勉強さえしていれば立派な大人になれると教えているが、実際はそうではないのだ。
社会人になって、初めてそのことに気づく人は多いだろう。
自分が信じてきた理想と現実の違い、そのギャップに戸惑い、精神的ダメージを負うことになる。
しかし、それでもまともな人生を送りたければ逃げることは許されない。
なぜなら、日本の社会では「新卒で入社した会社は最低でも三年間はいなければならない」という暗黙のルールがあるからだ。
転職するにしても、前職を三年以内に辞めると途端に評価が下がってしまう。
三年という期間に特に意味があるわけではないのだが、この国ではそういう決まりなのである。
もし、三年以内に離職すれば、まともな人生のレールから外れることは免れない。
まともな人生を送りたければ、意地でも三年間は会社にしがみつかなければならないのだ。
25歳~30歳以降に必要なこと
三年を過ぎれば仕事にも慣れ、ようやく社会人生活が板についてくる。
仕事でも責任ある役職が与えられ、それに比例して給料も上がってくる。
経済面に関して言えば、学生時代とは比較にならないほどお金を自由に使える。
だが、一人前と認められるにはまだ足りない物がある。
それが結婚だ。
この年齢になると、周りに結婚する人が増えてきて、だんだんと独身でいることに疎外感を感じるようになる。
現代社会では昔に比べて独身でいることは珍しくなくなったものの、会社の上司(上の世代)からすればまだまだ「結婚して一人前」という価値観は変わらない。
それは自分の親も同じだ。
30歳頃になれば、親からも孫の顔が見たいと言われ、次第に結婚への圧力が掛かってくる。
この国のまともな人生とは、結婚して子供を作り、自分の家庭を持って初めて認められるのだ。
子育てのことも考えると、最低でも30代前半までには子供を作っておきたい。
子供が産まれたら、後は子供の成長を日々の糧にしながら定年まで働く。
男性なら言わずもがな、女性の場合も今の時代は共働きが当たり前とされている。
子供が成人して自立できたら無事に役割は完了だ。
ここでようやく世間に堂々と「自分はまともな人生を送ってきた」と宣言することができる。
老後は孫と一緒に一家団欒で幸せな時間を過ごすこと。
これが日本で言われる順風満帆なまともな人生の送り方だ。
まともな人生を送れば幸せになれるのか
以上がまともな人生を送るために必要なことである。
これを読んで、あなたは今どのように感じているだろうか。
私は、自分で書きながら、この国のまともな人生は改めてハードルが高いと感じた。
年を重ねるごとに次々と成すべき課題が押し寄せてきて、息つく暇もない。
そのくせ、一度でもレールから外れれば、まともな人生に戻るのは至難の業だ。
まともな人生を送りたいと願うなら、いかに早くこの事実を知るかがカギである。
だが、果たして、こんなことを幼少期から理解している人間がどれくらいいるのだろうか。
ただでさえ子供の頃は将来何にでもなれる万能感があるものだ。
普通に暮らしているだけでは、とてもここまでの現実を予測することはできないだろう。
一つだけ可能だとすれば、それは親から教えてもらうことだ。
多くの親は、勉強や習い事のことだけを教えるが、本当はこういったリアルな人生観を教えることこそが親の役目なのだ。
視野の狭い子供に「世界」を教えられるのは親しかいないのだから。
もちろん、仮に親から教えてもらったとしても、それが実現できるかどうかは別の話である。
結局は自分で体感しなければ本当の意味では心には響かない。
しかし、何も知らないことと話だけでも聞いているとでは、心の持ち方が大きく違ってくる。
もし、あなたが自分の子供にまともな人生を送ってもらいたいと願うなら、早いうちに「まともな人生を送るためには何が必要か」を子供に話しておくことをオススメする。
それは必ず子供の人生観に影響してくるはずだ。
さて、さんざんまともな人生について話してきたが、察しのいい人なら一つの疑念を感じたことだろう。
それは、まともな人生を送れば本当に幸せになれるのか、ということである。
結論から言えば、まともな人生を送っても、全ての人が幸せになれるとは限らない。
というのも、このまともな人生には、個人の気質が一切考慮されていないからだ。
例えば、世間では大学時代にリア充になることが良しとされているが、リア充になったからといって全ての人の心が満たされるわけではない。
大勢でワイワイ騒ぐよりも、一人で読者や映画などの趣味に没頭する方が好きな人もいるからだ。
そういう気質の人間が無理にリア充を目指せば、たちまち心は疲労していく。
この状態が幸せなわけがない。
しかし、この国では「まともな人生を送ることでしか幸せを得られない」と多くの人が信じきっている。
恐ろしいことに、そこに疑念を感じる人はほとんどいないのだ。
そういった目に見えぬ圧力を受け続け、まともな人生が合わない人でも、次第に「まともな人生を送っていない自分」に後ろめたさを感じるようになってしまう。
だが、それは間違いだ。
あなたが世間で言うところの「まともな人生」を歩んでいなかったとしても、気にする必要は全くない。
なぜなら、幸せの形は人それぞれなのだから。
まともな人生と幸せな人生は全くの別物である。
一人で本を読んだり、ゲームをしたりすることで幸せを感じるなら、思う存分それを堪能すればいいのだ。
自分が何をしている時に幸せを感じ、どうすれば幸福を得られるのか。
自分と向き合いながら懸命にそのことを考え抜き、自分自身を知ることこそが幸せな人生を送るために一番必要なことである。
間違っても、まともな人生を歩んでない自分を卑下しないでもらいたい。
あなたにはあなたの幸せがある。
「まともな人生」という幻想に捉われず、あなたが幸せな人生を送れることを願っている。