被災地への支援物資から考える「思いやり」の本当の意味

2018年7月上旬、西日本に未だかつてないほどの豪雨が降り注いだ。

その影響で、広島、岡山の中国地方を中心に土砂崩れや河川の氾濫などの大きな被害が相次いでいる。

中でも、特に被害が目立つのが岡山県倉敷市真備町だ。

ニュースで見た人も多いだろうが、豪雨で小田川の堤防が決壊し、町の27%が浸水してしまった。

その光景は、まるで2011年の東日本大震災を彷彿させるようだ。

恐らく、心優しい人ならばこう思ったはずだ。

『被災者の方々に一刻も早く元の生活を取り戻して欲しい。そのために少しでも力になりたい』

とても高貴な「思いやり」の心である。

しかし、時にその思いは、逆に相手の迷惑になる、ということも忘れてはならない。

今回は、多くの人に「本当の思いやり」とは何かを考えてもらいたく、相手を思いやることの大切さを説きたい。

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支援物資で起こった思いやりの議論

「ありがた迷惑」という言葉があるように、自分が良かれと思ってしたことでも、相手にとっては迷惑になることがある。

私は、今回の西日本豪雨でそのことを改めて思い知らされた。

そのきっかけとなったのは、twitterに投稿された一人の声(ツイート)である。

以下がその発言だ。(原文ママ)

折り鶴を贈るのはやめてください。
場所も取る上重く、モノがモノですから捨てづらい、食べ物でもなければ売ってお金にできるものでもない。
完全に作る側の自己満足でしかありません。
折り鶴を作る費用を募金してください。
お願いします。
東日本大震災経験者より。

投稿者は東日本大震災の被災者ということで、純粋に心の内を吐き出したのだろうが、この発言がtwitter上で軽い炎上騒ぎとなった。

投稿者の意見に賛同する者もいれば、「人の善意にその言い草はなんだ!」と怒りをあらわす者もいる。

賛同者と反論者の間で議論が沸き起こったのだ。

どちらの言い分にもそれぞれの理があり、これはなかなかに難しい問題である。

だが、私は思う。

善意を踏みにじられたと感じる人達は、本当に相手の気持ちを考えているのだろうか、と。

私は、思いやりとは、「相手の置かれている立場を想像し、相手が何を求めているかを理解しようとする心掛け」だと思っている。

今回の件でいえば、被災者の心境を想像することこそが「思いやり」なのである。

突然の豪雨で家が浸水し、避難を余儀なくされ、心が不安で押しつぶされそうになっているはずだ。

水道や交通網などのインフラがまともに機能していない状況では、食料が全員に行き届いているとは到底思えない。

それでもお互いに励まし合いながら、懸命に飢えに耐えているのだろう。

そんな状況の中、せっかく届いた支援物資が折り鶴」だとわかったら、どういう心境になるだろうか。

もし私がその立場だったら、とてもじゃないが感謝などできないと思う。

落胆失望……いや、ヘタをしたら送りつけた人間に怒りが沸くかもしれない。

頭では善意でしてくれたことだと理解していても、空腹という本能の前では理性が保てないのだ。

綺麗事抜きにして、折り鶴ではお腹は膨れない。

この投稿者はそのことを嫌というほど味わっているからこそ、自分の心の内を明かして世間に呼び掛けたのではないだろうか。

災害で家を失う絶望感飢えの苦しみ、その辛さを体験していない人間が、善意という言葉を盾にして投稿者を否定することは筋違いだと私は思う。

本当の思いやりとは何か

とはいえ、相手のために何かをしてあげたいと思う気持ちはとても尊いものだ。

最初から相手の気持ちを100%理解できる人間などそうはいない。

結果的には感謝されなかったとしても、その気持ちは人として失ってはならない大切な感情である。

折り鶴の件にしても、元々の動機は「被災者を勇気づけたい」という善意からしたことなのだから。

ただ、それが許されるは相手の気持ちがわからない場合の話だ。

相手が心の内を明かし、自分の善意が相手にとって迷惑であるとわかったら、その時はスッパリとその行動を止めるべきである。

それでも尚、相手に自分の善意を受け取ることを強要するのなら、それはもう「思いやり」ではなく「善意の押し付け」だ。

冒頭でも述べたように、相手のタメを思ってしたことでも、相手にとっては迷惑だと感じることもあるのだ。

自分が相手に何かをしてあげたいと思うのは自由だが、それで感謝するかどうかは相手が決めることなのである。

恐らく、「善意を無下にするな!」と怒る人達は、そこに見返りを求めているからこそ怒りの感情が芽生えるのではないだろうか。

「そんなことはない!」と否定するかもしれないが、見返りとは相手から何かをもらうことだけを指すのではない。

相手から感謝の念を望むことも、れっきとした見返りなのである。

そのことを自覚していないからこそ、相手から感謝されないことに腹が立ってくるのだと思われる。

もし、そうだとするならば、もう一度自分の目的は何なのかを考えて欲しい。

多くの人は「相手に喜んで欲しい」と願ったからこそ、その行動(善意)を起こしたはずだ。

ならば、相手から感謝されるかどうかは問題ではないはずである。

『自分はこれだけしてやったんだから感謝されるのは当たり前だ』

この思考は、自分よがりのひどく傲慢な考えである。

本来、本当に相手のために何かをしてあげたいと願うなら、見返りは一切求めてはいけないのだ。

見返りを求めている時点で、それはもう半分自分のためにしているようなものである。

もちろん、相手から感謝されれば嬉しいし、感謝されることで人の役に立つ喜びを知ることはとても大切なことだ。

だが、決して感謝されることを当たり前だと思ってはいけない。

自分が相手に何かを与えたからといって、それで感謝される保証は何処にもないのだから。

そのことをくれぐれも肝に銘じてもらいたい。

相手の気持ちを尊重し、感謝を強要しないこと。

それが本当の意味」で相手を思いやる、ということである。

その気持ちを持っていれば、相手から迷惑だと思われることはないはずだ。

どうか、そのことを心に留めて、これからも正しい思いやりで相手を喜ばせてあげて欲しい。

心優しいあなたなら、きっとそれができるはずだ。

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