昨今、物騒なニュースを目にすることが多い。
つい先日に起こった「京王線ジョーカー男」の事例もまさにそれだ。
こういったケースの犯人は決まって社会への憎悪という動機付けが強い。
そんな彼等のことを世間は「無敵の人」と呼ぶ。
これは、失うものがなく恐いものは何もない人、という意味合いから付けられたようだ。
彼等は一体どのような流れで無敵の人になってしまったのか。
今回は、私なりに彼等の心理を考察し、無敵の人を生み出す原因とその解決策について語りたい。
無敵の人を生み出す原因
冒頭で考察と書いたが、実は私には彼等の気持ちがなんとなくわかるのだ。
もちろん、本当の気持ちは本人にしかわからないし、私自身は彼等のように物騒なことを起こそうと思ったことはない。
しかし、気持ちのうえでは彼等と同じように社会に対して強い憤りを感じていた。
まず前提として、彼等はなぜ社会に憎悪を抱いているのか。
それは、人生に希望を見出せないからである。
この日本という国は、「人生の幸せ」という形が明確に定められている。
それがいわゆる「勝ち組」と言われる人生であり、それ以外は「負け組」とされてしまうのだ。
具体的に言えば、良い大学に行って良い会社に就職し、そして結婚して子供を作る。
これが俗にいう「幸せ」の定義である。
しかし、もうお気づきだろうが、この「幸せの形」は昨今では誰もが享受できるものではない。
昭和時代とは違い、雇用形態も非正規社員が多くなり、金銭的な面からも結婚のハードルは上がっている。
時代の変化は着実に進み、昔は誰もが手にしたものが今では当たり前ではなくなっているのだ。
にも関わらず、幸せの定義は昔と何も変わらない。
もちろん、個人単位で見れば「時代が違う」と悟ってる人もいるが、世間一般的には昔の価値観のままだ。
その結果、幸せのレールから外れた人間は、社会からはじき出されたような疎外感を感じる羽目になる。
そして、ここが最も恐ろしいところだが、一度幸せのレールからはじき出された人間は、この国では二度とその幸せを得られない可能性が高い。
なぜなら、この国は年齢というもので人生が区分されているからだ。
大学を卒業したら新卒ですぐに就職して、30歳前後までには結婚して子供を作る。
このルートから外れた人間は幸せの流れには戻れないのである。
つまり、下手をしたら新卒の就職活動の時点ですでに幸せの道が閉ざされることになる。
これは本当に恐ろしいことだ。
わずか20代前半の時点で人生が決まってしまうのだから。
しかし、残念ながらこれがこの国の社会の仕組みである。
無敵の人になる心理
幸せのレールから外れた人間の心理は至って簡単だ。
幸せを掴んでいる(幸せの流れに沿っている)人間を恨み、やがてはその憎悪の矛先が社会全体に変わる。
どうあがいても自分には幸せを手にすることができないのだから、もうどうなっても構わない。
捨て身になってでも他者の幸せを壊したい。
これが無敵の人の心理である。
後は実際に行動に起こすか、それともせいぜいネットなどで不満を漏らして終わるか、その違いだけだ。
私も20代の頃はこんな思考だった。
だから彼等が社会に対して憎悪を抱く理由はなんとなくわかるのだ。
幸いにして私は行動を起こすまでには至らなかったが、中には自制が効かずに最後のスイッチが入ってしまう人間もいるのだろう。
その成れの果てが京王線ジョーカー男のような輩である。
こう考えると、彼等は異常者でもなんでもないのがわかるだろう。
人生に絶望し、他者を妬み、そして社会への憎悪という思考の段階を経て、なるべくして無敵の人になっているのだ。(もちろん中には本物の異常者もいるが)
だからこそ、私は京王線ジョーカー男のような事例があった時は、その犯人をただの異常者で終わらせてはならないと思っている。
その犯人の動機を作り出した社会構造の歪みにもっと目を向けるべきなのだ。
そうでなければ、今後も彼等のような無敵の人が物騒なことを起こしかねないのだから。
念のため補足しておくが、私は決して彼等を擁護しているわけではない。
たとえ社会に憎悪があったとしても、彼等が起こした罪は決して許されることではない。
しかし、根本的には彼等のような無敵の人を作り出さないことこそが最も重要だ。
そのためにも、多くの人に無敵の人の思考を知って欲しいのだ。
無敵の人を生み出さないための解決策
では、無敵の人を生み出さないためにはどうすれば良いのか。
まず、私が最も重視してもらいたいのは、幸せの形は一つではない、ということを多くの人に気づいて欲しいということだ。
私が冒頭から述べている「幸せ」というのは、あくまで世間が定義づけた幸せである。
言うなれば、他人から見た幸せの形だ。
私はこれを「他人軸の幸せ」と呼んでいる。
しかし、他人軸の幸せというのは、それを手に入れたところで本当に幸せになれる保証などどこにもない。
例えば、他人軸の幸せの定義では、良い会社に入ることが絶対的な幸せと認識されているが、果たして本当にそうだろうか。
仮に大企業に入ったとしても、世の中にはサラリーマン生活に向いてない人だって大勢いるのだ。
そういった人間が、生涯サラリーマン生活を強いられることは苦渋以外の何物でもないだろう。
結婚に関してもそうだ。
世の中には結婚に向かない人間は必ずいる。
一人の時間が大事な人間が、常に伴侶と一緒にいることを強いられれば、その人の精神は必ず破綻するだろう。
そんな結婚生活が幸せのはずがない。
つまり、他人軸の幸せは、誰にでも当てはまる幸せではないのだ。
しかし、多くの人間は他人軸の幸せを妄信しているがために、幸せの形はそれしかないと思い込んでいる。
その結果、皆が同じゴール(他人軸の幸せ)を目指し、学生時代から同じ道を歩むことを強制的に強いられる。
だが、再度言うが、幸せというのは他人が決めることではないのだ。
自分が幸せに感じるかどうか、それが全てである。
私はこれを「自分軸の幸せ」と呼んでいる。
仮に自分が「他人軸の幸せ」とは違う生き方をしていても、自分が幸せだと感じるならば、それは本物の幸せである。
そういう意味では、昨今では「自分軸の幸せ」で生きている人も大分増えてきた。
例を挙げれば、「youtuber」がまさにそれだろう。
彼等は自分の好きなことをして収入を得ており、毎日を本当にイキイキして過ごしている。
他人軸の幸せを妄信している人には、yotuberは社会の落ちこぼれにしか見えないかもしれない。
しかし、私からすれば彼等こそが本当の意味で人生の勝ち組である。
毎日好きなことをして生きられる。
それはこれ以上ない幸せだろう。
誤解しないでもらいたいが、別に私はyoutuberになれと言っているのではない。
人によっては前述した「他人軸の幸せ」で幸せになれる人もいるだろう。
重要なことは、自分が本当に幸せなのかどうかを自分の感情で判断する、ということだ。
決して、他人から見て幸せだと思われることが「幸せ」だと勘違いしてはならない。
そして、仮に「他人軸の幸せ」のルートから外れたとしても、幸せの形は他にもあるということを忘れてはならない。
「自分軸の幸せ」はいつだって手に入れられるのだから。
そして、もう一つ大事なことは、無敵の人を作る要因となっている社会構造の歪みを改革することだ。
そのためにも、まずは就職での新卒一括採用を廃止するべきである。
この新卒一括採用という制度があるからこそ、「幸せのレール」などという歪んだ幻想が生まれるのだ。
よく考えて欲しい。
自分の生涯を掛ける仕事選びを、まだ社会経験のない学生のうちに決めるなど無理があるとは思わないだろうか。
本来、自分の進む道というのは、社会に出た後の経験から学び、自分の適性を見極めながら自分が本当にやりたいことが自然とわかってくるものだ。
にも関わらず、この国はその猶予を与えることなく、学校を卒業すると同時に強制的に選ばせようとする。
これでは本当の自分の進むべき道など見えてくるはずがない。
そもそも、なぜ新卒一括採用などという制度があるのか。
それは「終身雇用制度」と「賃金の年功序列」というものがセットになっていたからだ。
昭和の日本では、多くの人間がこの恩恵にあずかり、一億総中流社会というものが実現された。
しかし、現代社会では終身雇用制度や年功序列での賃金の上昇など多くの会社では行なわれていない。
つまり、実質的にこれらの制度は崩壊しているのだ。
であるならば、新卒一括採用など何の意味も成さない。
ただ「他人軸の幸せ」から漏れた社会の落ちこぼれを排出するだけの悪しき風習である。
知らない人もいるだろうが、海外(主に欧州)の就職事情では新卒一括採用など行われていないのだ。
海外の学生は大学を卒業したら旅に出て自分の価値観を模索し、その後で就職について考える、というケースなど当たり前に行っている。
日本に住んでいたら驚くかもしれないが、30代で無職でも世間からは何とも思われない。
むしろ、まだ若いとさえ言われる。
それは何故かといえば、年齢というものを重視していないからだ。
日本のように「この年齢では何をしていなければならない」という区分を設けていないのである。
皆が皆、「自分軸の幸せ」を追求し、それが当たり前のことだと認識している。
就職に関しても、海外では「年齢」を履歴書に書くことを法律的に禁止しているのが主流だ。
だからこそ、年齢に左右されずに何歳からでも自分の人生をスタートさせることができる。
それに比べて、この国はなんと閉塞的なのだろうか。
年齢によって人生のステージが区分けされ、それに沿った生き方をしなければ落ちこぼれだと認識される。
誰もが同じような人生を歩むことを強制させられる同調圧力。
あまりにも息苦しい。
こんな社会では、無敵の人が生まれるのは同然ではないか。
ある意味、無敵の人という単語が生まれたのは、大きな視点で見れば良いことなのかもしれない。
日本は今こそ変わるべきなのだ。
「他人軸の幸せ」という幻想を追い求める社会ではなく、皆が「自分軸の幸せ」を目指せる社会に。
そのための取っ掛かりとして、新卒一括採用の廃止と年齢を明かす記載を法律で禁止すればいい。
それだけでも社会の歪みは緩和され、今よりも必ず解放的になると私は信じている。
どうか、これを読んでるあなたも、幸せの定義を自分軸で考えることを心に留めて欲しい。
決して幸せの度合いを周りと比べて「自分の方が優れている、劣っている」などという卑しい心理状態になってはならない。
一人一人の「幸せ」の意識が変われば、必ず社会は寛大になる。
これ以上、世の中に無敵の人が生まれないことを私は切に願っている。