学生時代は優秀だったのに、社会に出た途端にダメ人間になってしまう。
近年、このような「勉強はできるけど仕事はできない人」が増えている。
何を隠そう、私自身もその一人だ。
自慢ではないが、私の学生時代の通知表はほとんどが四(五段階中)であった。
私が学生だった頃はまだ相対評価だったため、これだけで判断すれば、普通よりも「勉強ができる子」と言っていいだろう。
しかし、現在の私といえば、自他共に認める社会不適合者である。
職場を何度も変え、自分なりに頑張ってきたが、どうしても仕事ができない……。
学生時代は勉強ができたのに、なぜ社会に出た途端に仕事ができなくなるのか……。
今回は、私のように「勉強はできるけど仕事はできない人」の生態を探り、その原因について語りたい。
学生と社会人では求められる物が違う
勉強はできるのに仕事ができない、その大きな理由は、学生と社会人では求められる物が違うからだ。
その違いを端的に言えば、「受け身」か「能動」かの違いである。
学生という立場は、言うなれば商品(知識)を提供してもらっている「お客」という立場だ。
「学生の本分は勉強」とは言うものの、それは学校にお金を払っているからこそ受領できる恩恵である。
よって、学校側としては変に自分の考えを持たれるよりも、「決められたことを従順にこなしてくれる人」の方がありがたいのである。
決められた日程で、決められた授業を受け、決められたテストで良い点を取る。
これこそが正しい学生の在り方だ。
見て分かる通り、全てが受け身のままでいられるのだ。
しかし、社会に出れば、これらが全て真逆になる。
社会人としてやっていくためには、主体性を持たなければならないからだ。
自分で仕事を管理し、自分で責務(ノルマ)を果たし、自分から積極的に相手に働きかける。
基本的な「仕事の流れ」は一応存在してはいるものの、学生と違ってただ決められたことをすれば評価されるわけではない。
社会人とは、お金を生み出す立場であり、言うなれば顧客に商品(サービス)を与える立場なのだ。
よって、学生の時と違い、能動的な人材にならなければならない。
その中でも、特に重要視されるのが「要領の良さ」と「コミュ力」である。
この「要領の良さ」と「コミュ力」こそが、「勉強はできるけど仕事はできない人」を生み出す最大の要因である。
この二つのスキルは、社会人として「優秀な人」は必ず持ち合わせているスキルだが、「勉強はできるけど仕事はできない人」は、この「要領の良さ」と「コミュ力」が決定的に不足している。
なぜ「勉強はできるけど仕事はできない人」は、これらのスキルを持ち合わせていないのか。
それは、この二つのスキルは、最小限の学生生活を送るだけでは習得できないからである。
前述したように、学生とは受け身の立場であり、勉強さえできれば良い生徒として扱われる。
それは逆に言えば、それ以外のことは不足していても卒業はできてしまうのだ。
例えば、勉強にしても、定期テストの時にだけ良い点を取ればいいので、せいぜいテストの1週間前に集中して勉強すれば問題ない。
恐らく、この記事を読んでいる人の中にも、一夜漬けでテストを乗りきっていた、という人がいると思う。
普段は勉強をせずに、ギリギリになってから始動する。
こんなやり方では「要領の良さ」が身につくはずがない。
さらに、もう一つの「コミュ力」に関しても、学生のうちは誰とも接しなくても過ごすことができる。
学校の授業は、基本的に黙って聞いているだけであり、そこにコミュ力は必要ないからだ。
どうしても必要な時といえば、せいぜい体育の授業や英語の時間に二人一組になる時くらいだろう。
大学生になれば、それさえもなくなる。
極論を言えば、一言も話さずに一日を終わらせることができるのだ。
このように、「勉強はできるけど仕事はできない人」は、学生生活を最低限の労力でこなしている人が非常に多い。
それ自体は決して悪いことではないのだが、そのままの状態で社会人としてやっていけるのかと聞かれれば、残念ながら答えはノーである。
再度言うが、社会人としてやっていくためには「能動的な人材」にならなければならないのだ。
学生生活を普通にこなすだけでは、能動的な人材には決してなれないのである。
学生の頃は優秀だったのに、社会になるとダメ人間になってしまうジレンマ。
私同様に、きっと「勉強はできるけど仕事はできない人」はそのことに悩み苦しんでいるだろう。
ただ、察しの良い人ならば、ここで一つ疑問に思ったことがあるはずだ。
社会に出ても優秀な人は、どのようにして「要領の良さ」と「コミュ力」を身につけているのか、と。
実は、それこそが今回の記事で私が最も伝えたいことである。
次項では、その二つのスキルの習得方法について詳しく述べる。
企業が文武両道の人材を求める理由
社会人として必要なスキルである「要領の良さ」と「コミュ力」は、どのようにすれば身につけることができるのか。
その答えは、部活動だ。
あなたも就職活動の面接で「何か運動をしていましたか?」という質問をされたことはないだろうか。
この質問を、ただの運動経験を問う質問だと思ってはいけない。
企業側はこの質問で、あなたが「優秀な人材」になれる素質があるかどうかを見極めているのだ。
具体的に言うと、会社はあなたが運動部に入っていたかどうかを知りたいのである。
なぜなら、この運動部に入っていることで、前述した「要領の良さ」と「コミュ力」を身につけることができるからだ。
では、その理由を詳しく説明していく。
運動部に入ったことがある人ならわかると思うが、運動部は理不尽なことで溢れている。
上下関係の厳しさはもちろんのこと、時には自分に全く非がないことで怒られることもある。
まさに、理不尽のオンパレードだ。
本来、これは決して誉められることではないのだが、この運動部を経験することによって、社会人としてやっていくための重要な力を身につけることができるのだ。
それは、理不尽への耐性である。
社会とは、部活以上に理不尽なことで溢れている。
責任を押しつけられたり、仕事ができても評価されなかったりと、「これをすれば評価される」という絶対的な方程式が存在しない。
学生時代は勉強さえできれば評価されたが、社会ではそもそも正解がないのだ。
そうした物事に白黒つけられない世界では、学生時代に運動部に入っていなかった者は耐えられないのである。
逆に、学生時代に運動部に入っていた人は、そういった理不尽への耐性が身に付いているため、社会に出ても全く戸惑いを感じない。
言い方は悪いが、感覚がマヒしてしまっているのだ。
だからこそ上司や先輩から理不尽なことで怒られても、平然としていられるのである。
さらに言えば、部活動で鍛えた上下関係の耐性により、目上の者に可愛がられる処世術に長けている。
いわゆるゴマスリである。
「勉強はできても仕事はできない人」は、とにかくこの上下関係が苦手だ。
少しでも怒られれば顔に出してしまうし、自分が間違っていないと思ったら相手が誰であろうと意見を曲げない。
学生時代に理不尽を味わってこなかったのだから当然だろう。
しかし、そんなことでは社会人としてやっていけないのは、あなたはすでに十分理解しているはずだ。
世間でいう真っ当な社会人とは、ある意味、「どれだけ理不尽に耐えられるかの根比べ」なのである……。
悲しいことだが、それが今まで私が働いてきて出した答えだ。
さらに、運動部に入ることのメリットはこれだけではない。
もう一つの要素である「要領の良さ」も同時に鍛えることができる。
運動部は、基本的に毎日活動がある。
そのため、必然的に自分の時間が少なくなる。
よって、勉強は隙間時間に効率よくこなさなければならない。
部活に入っていない者なら、授業中は聞き流してテスト前だけ勉強すれば良いが、運動部に入っている者は授業中にいかに集中するかがカギとなる。
『教えられたことは一度で覚える』
こうした勉強のやり方が「要領の良さ」を鍛えることに繋がり、結果として社会に出ても仕事を効率的にこなせるようになるのだ。
以上の理由から、企業は学生時代に「運動部に入っていた人」を欲しがるのである。
こうして考えると、世間で「文武両道」が推奨されることは、ある程度は理に適っていると言えるだろう。
高学歴で仕事はできない人に起こる弊害
前項で話したように、「勉強はできるけど仕事はできない人」は社会人としてやっていくためのスキルが決定的に不足している。
しかし、幸か不幸か学生生活ではそれを実感することができないのだ。
ある意味では幸せなことかもしれないが……そのことで一つ、重大な弊害が起こってしまう。
それは「学歴」が価値観の全てになってしまうことだ。
「勉強はできるけど仕事はできない人」は、当然ながら学歴が高い人が多い。
ここで言う学歴とは、世間で言うところの「良い大学」である。
『良い大学に入りさえすれば、人生の成功は保証されたも同然だ』
彼等の思考は、大体決まってこのようのものだ。
たしかに、学歴が高ければ世間からの評価は高まるだろう。
しかし、【良い大学、良い会社に入ることへの幻想】で話したように、今の時代はそれだけで人生の成功が保証されるわけではない。
はっきり言って、学歴が高くても社会人スキルが低ければ、成功する確率は格段に低くなる。
もちろん、研究職などの学歴が出世に直結するような職業ならば話は別だが、世間一般の「サラリーマン」には、学歴の高さよりも社会人スキルの方がよほど重要である。
では、学歴とは何の意味があるのか。
端的に言うと、学歴とは新卒時の就職活動のためである。
就職活動をした者ならわかると思うが、いわゆる大企業と呼ばれる会社は応募数が多いため、倍率が高い。
そのため、ある程度は書類選考の時点で足切りしなければ対応が追いつかないのだ。
「良い大学」に入っていれば、少なくとも足切りはされることがない。
そういう意味では、「良い大学」に入ることは学生のうちは誇れることだと言っていいだろう。
しかし、仕事ができない人が、その価値観を社会に出てからも持ち続ければ、必ず歪みが生じることになる。
社会人を経験したことがある人なら分かると思うが、会社は学歴が高いだけで評価などしてくれない。
一昔前なら「良い大学」に入れば出世も保証され、生涯安定の道を辿れた。
だが、何度も言うが、それは今の時代には全く当てはまらないことだ。
極論を言えば、例え東大出身でも、仕事ができなければ無能の烙印を押される時代である。
ただ、それだけなら特に問題はない。
問題なのは、本人が自分を「仕事ができない人間」だと認められないことだ。
なまじ学歴が高いと、自分が他人より劣っている、という事実を認めることができなくなってしまう。
学生時代は学歴が評価の基準であり、良い大学に入っていれば、それだけで周りは「できる人」だともてはやしてくれる。
そういった環境に身を置けば、嫌でも「自分は有能だ」と勘違いしてしまうものだ。
だが、いつかは自分が「仕事ができない人間」だということを認めなければ、一向に前に進むことはできない。
最悪の場合、その人は学歴に全てが支配されてしまう。
いわゆる学歴厨と呼ばれる人種だ。
学歴厨になってしまうと、「学歴」だけで他人をランク付けし、自分より学歴が劣っている人間を徹底的に見下すようになる。
そういった人間は職業にもとことん偏見的だ。
俗に言うホワイトカラーと呼ばれる職業しか認めず、肉体労働をとことん見下す傾向が強い。
ひどい場合は、仮に自分がニートだとしても、「良い大学」出身ならば、高卒の肉体労働をしている人よりも自分の方が社会的地位は上だ、と本気で思い込んでいる。
普通の人ならありえない思考だが、学歴厨にとっては至って「当たり前」の思考なのだ。
頭の中が学歴一色で完全に染まっている。
もはや、常人とは完全に価値観がかけ離れてしまっているのだ。
当然、こんな思考ではいつまで経っても社会に溶け込むこともできないし、社会人としてやっていくことも不可能だ。
ここで一つ、あなたが学歴厨にならないためにも、厳しい現実を伝える。
どんなに高い学歴を持っていたとしても、会社は「仕事ができない人間」を絶対に評価しない。
学歴の効力があるのは新卒時の就職活動だけであり、入社してしまえばそこからは個人の能力が全てだ。
さらに言えば、中途採用では「職歴」の方が何倍も重要である。
つまり、学歴厨が言うほど、社会は学歴で人を評価していないのだ。
そのことを肝に銘じ、あなたも学歴厨にならないようにくれぐれも注意してもらいたい。
勉強はできるけど仕事はできない人の生き方
私は、日本の教育システムに常々疑問を感じている。
学生時代は「勉強を頑張れ」と教えるくせに、いざ社会に出ればその勉強が何の役にも立たないのだから。
社会人として本当に役立つスキルは、勉強以外の対人コミュニケーションでしか得られない。
しかし、学校はそのことを一切教えてくれない。
自分で気づけと言わんばかりに、全くの無関心だ。
結局、そのことで一番割りを食うのは、今回のテーマである「勉強はできるけど仕事はできない人」である。
そう考えると、「勉強はできるけど仕事はできない人」は、学校教育の被害者とも言えるのではないだろうか。
とはいえ……文句を言ったところで、長年培ってきた教育システムをすぐに変えることは無理だろう……。
学校側が教えてくれなかったと言っても、社会に出ても「優秀なままでいられる人」は存在するのだから……。
ならば、やはり自分で対処するのが堅実である。
では、「勉強はできるけど仕事はできない人」は、一体どのようにして生きていけばいいのか。
ここでは、そんな「勉強はできるけど仕事はできない人」のために、今後の生き方を助言したい。
まず、何より大切なことは、自分が「仕事ができない人間」だということを認めることだ。
人は、他人を客観視することはできても、自分のこととなると途端に客観視できなくなる。
その大きな理由は、自分の過去に縛られているからだ。
今回のことでいえば、学生時代は優秀だったという過去の栄光にとらわれているのである。
だが、その幻影を捨てなければ、あなたは永遠に生きづらさから解放されることはない。
最初は、自分が「仕事ができない人間」だと認めることを苦痛に感じるかもしれない。
しかし、一度認めてしまえば、恐ろしいほどに楽になれることを実感できるはずだ。
全ての始まりはそこからである。
そのうえで、物事の価値観を学歴ではからないこと。
前述したように、学歴厨になってしまえば、職業にまで偏見を持つようになってしまう。
それはつまり、自分の可能性を閉ざすことにも繋がるのだ。
世間で良いとされる職業が、必ずしも自分にとって良い職業とは限らない。
自分にとって最適な職業とは、自分の力を発揮できる仕事である。
【自分の才能を見つける方法】でも話したように、人には向き不向きがある。
向いていないことを続けても、それは本人にとっても会社にとっても何の得もない。
あなたが追い求めている理想の仕事が、必ずしもあなたにとっての最適な場所とは限らないのだから。
自分にとっての最適な仕事を探すためには、【ニート・社会不適合者でもできる「自分に合う仕事」の探し方】でも話したように、まずは自分が「仕事ができない人間」だと認めることである。
そのうえで、最大限に自分の力を発揮できる仕事を探すことが大切なのだ。
私は、「勉強はできるけど仕事はできない人」は、他人の価値観に縛られている人が非常に多いと感じる。
世間に認められることに執着するばかりに、自分の「幸せの形」が見えていないのだ。
【幸せになるために絶対に必要な考え方】でも話したように、本当の幸せとは、他人の価値観に左右されず、心から満ちた足りた気持ちになることだ。
自分にとっての「本当の幸せ」を探すことだけに焦点を当てれば、おのずと自分に合う生き方が見えてくる。
くれぐれも、世間でいう「良い会社」に入社することや「給料の高い職業」に就くことが、「成功の形」だとは思わないでもらいたい。
そういった執着を捨てることができれば、あなたはいずれ「自分が輝ける場所」に辿り着くことができるだろう。
どうか、その場所を見つけることを諦めないで欲しい。
あなたが自分の力を発揮できる「輝ける場所」を早く見つけられることを、私は願っている。